オスマン帝国

オスマン帝国

'''オスマン帝国'''(オスマンていこく、オスマン語ラテン文字転写)は、テュルク系(後のトルコ人)の帝室オスマン家皇帝とする多民族帝国で、現在のトルコの都市イスタンブル首都とし、最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナハンガリーチェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。

アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア北アフリカイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。17世紀末頃から衰退してその領土は蚕食されて急速に縮小。挽回を図り対ロシア攻略を主目的に第一次世界大戦に参戦したが、敗戦により帝国は事実上解体。20世紀初頭についに最後まで残っていた領土アナトリアから新しく生まれ出たトルコ民族国民国家トルコ共和国に取って代わられた。

その出現は西欧キリスト教世界にとって'''「オスマンの衝撃」'''であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、ハプスブルク帝国カール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させるその主要原因となった。そして、'''「トルコの脅威」'''に脅かされたハプスブルク帝国は'''「トルコ税」'''を新設、中世封建体制から絶対王政へ移行することになり、その促進剤としての役割を努めた鈴木(2000)‎、p.130.
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【動画】日本語字幕付きのトルコ語曲 - ロシア赤軍とオスマン帝国軍の軍事楽団の完璧な出会い - Ceddin deden(先祖は祖父だ)
日本語字幕付きのトルコ語曲 - ロシア赤軍とオスマン帝国軍の軍事楽団の完璧な出会い - Ceddin deden(先祖は祖父だ)

国名

英語でオスマン帝国を , と呼んだことから、かつては「'''オスマントルコ'''」、「'''トルコ帝国'''」、「'''オスマントルコ帝国'''」、「'''オスマン朝トルコ帝国'''」とされることが多かったが、現在は'''オスマン帝国'''あるいは単に'''オスマン朝'''と表記するようになっており、オスマントルコという表記は使われなくなってきている。これは、君主パーディシャースルタン)の出自はトルコ系で宮廷の言語もオスマン語と呼ばれるアラビア語ペルシア語の語彙を多く取り込んだトルコ語ではあったが、支配階層には民族宗教の枠を越えて様々な出自の人々が登用されており、国内では多宗教・多民族が共存していたことから、単純にトルコ人の国家とは規定しがたいことを根拠としている。事実、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国を「トルコ帝国」とは称さず「オスマン家の崇高なる国家」「オスマン国家」などと称しており、オスマン帝国はトルコ民族の国家であると認識する者は帝国の最末期までついに現れなかった。つまり、帝国の実態からも正式な国号という観点からもオスマントルコという呼称は不適切であり、オスマン帝国をトルコと呼んだのは実は外部からの通称に過ぎない。

なお、オスマン帝国の後継国家であるトルコ共和国は正式な国号に初めて「トルコ」という言葉を採用したが、オスマン帝国を指すにあたっては「オスマン帝国」にあたる や「オスマン国家」にあたる の表記を用いるのが一般的であり、オスマン朝トルコ帝国という言い方は現地トルコにおいても行われることはない。
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【大航海時代online】 オスマン帝国海上攻撃船団
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歴史

オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、帝制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年が滅亡年とされる。

もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定することは難しい。
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稲妻 ~バヤズィト1世~ Bayazid I of Ottoman Empire
オスマン帝国の皇帝バヤズィト1世は、 機動力を活かしたその速さから「稲妻」の異名を付けられていた。 そんな稲妻皇帝が辿った生涯とは!? Flash「信玄の野望」より (up 2006.2.13) www.geocities.co.jp Music「Visible Invisibility」(Rainyさん提供) www.muzie.co.jp
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建国と拡大の時代

13世紀末に、東ローマ帝国ルーム・セルジューク朝の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部にあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、遊牧民の集団であったとする説も根強く、一般にはオスマンを指導者として結集したムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)集団を形成した永田(2002)、p.174説が欧州では有力であるが未だに決着はされていない桜井(2005)、p.223.。彼らオスマン集団は、オスマン1世の父、エルトゥグルルの時代にアナトリア西北部のを中心に活動していたが、オスマンの時代に周辺のキリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展する''''''を築き上げた林(1997)‎、p.9.

1326年頃、オスマンの後を継いだ子のオルハンは、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大、アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨むスクタリをも手中に収めた。ブルサは15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。
1346年、東ローマの共治皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスは後継者争いが激化したため、娘をオルハンに嫁がせた上で同盟を結び、オスマンらをアナトリアより呼び寄せてダーダネルス海峡を渡らせてバルカン半島トラキアに進出させた林(1997)‎、p.11.。これを切っ掛けにオスマンらはヨーロッパ側での領土拡大を開始、1354年ガリポリを占領して橋頭堡とした桜井(2005)、p.206.。後にガリポリスはオスマン帝国海軍の本拠地となった桜井(2005)、p.233.。オルハンの時代、オスマン帝国はそれまでの辺境の武装集団から君侯国への組織化が行われた桜井(2005)、p.224.

オルハンの子ムラト1世は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ)を占領、ここを第二首都とするとともに、デウシルメと呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍イェニチェリを創設して国制を整えた。さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行った

1371年、でセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国や第二次ブルガリア帝国はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、1387年テッサロニキも陥落、ライバルであったカラマン侯国も撃退した林(1997)‎、p.13.1389年コソヴォの戦いセルビア王国を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を撃破したが、ムラト1世はセルビア人貴族によって暗殺された。しかし、その息子バヤズィト1世が戦場で即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった。なお、バヤズィト1世は即位に際し兄弟を殺害している。以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され、、これを兄弟殺しという。バヤズィト1世は報復としてを始めとするセルビア人らの多くを処刑した

1393年にはタルノヴォを占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに1394年秋にはコンスタンティノープルを一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、ペロポネソス半島までがオスマン帝国の占領下となった。これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった

さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、ボスニアアルバニアまで侵略、ワラキアのはオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。この状況はヨーロッパを震撼させることになり、ハンガリー王ジギスムントを中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らが十字軍を結成、オスマン帝国を押し戻そうとした林(1997)‎、p.14.

しかし、1396年ブルガリア北部におけるニコポリスの戦いにおいて十字軍は撃破されたため、オスマン帝国はさらに領土を大きく広げた。しかし、1402年アンカラの戦いティムールに敗れバヤズィト1世が捕虜となったため、オスマン帝国は1413年まで、空位状態となり、さらにはアナトリアを含むオスマン帝国領がティムールの手中に収まることになった桜井(2005)、p.228.矢田 (1977)‎、pp.103-104.

バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン朝成立以前のような、各君侯国が鼎立する状態となった。このため、東ローマ帝国はテッサロニキを回復、さらにアテネ公国も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた桜井(2005)、p.207.

バヤズィトの子メフメト1世は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し、その子ムラト2世は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1422年には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、1430年にはテッサロニキ、ヨアニナを占領、1431年にはエペイロス全土がオスマン支配下となった矢田 (1977)‎、p.104.

しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュはオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄スカンデルベグ1468年に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは1444年ヴァルナの戦い1448年のにおいて敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった

それ以前、東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスは西ヨーロッパからの支援を受けるために1438年から1439年にかけてフィレンツェ公会議に出席、東西教会の合同決議に署名したが、結局、西ヨーロッパから援軍が向かうことはなかった。1445年から1446年、後に東ローマ帝国最後の皇帝となるコンスタンティノス11世がギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、コリントス地峡のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが、メフメト1世と次代ムラト2世の時代は失地回復に費やされることになった桜井(2005)、p.228.

1453年、ムラト2世の子メフメト2世は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ついに東ローマ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった。また、これ以後徐々にギリシャ語に由来するイスタンブルという呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。そして1460年ミストラが陥落、ギリシャ全土がオスマン帝国領となり、オスマン帝国によるバルカン半島支配が確立した。

コンスタンティノープルの陥落後、メフメト2世はシャーリアに従うことを余儀なくされコンスタンティノープルには略奪の嵐が吹き荒れた。略奪の後、市内へ入ったメフメト2世はコンスタンティノープルの人々を臣民として保護することを宣言、さらに都市の再建を開始桜井(2005)、p.230.、モスク、病院、学校、水道、市場などを構築し、自らの宮廷をも建設してコンスタンティノープルの再建に努めた。

コンスタンティノープルの征服に反対した名門出身の大宰相を粛清し永田(2002)‎、pp.233-236桜井(2005)、p.230.、メフメト2世は、スルタン権力の絶対化と国家制度の中央集権化の整備を推進したことにより、トルコ系の有力な一族らは影を潜めその代わりにセルビア人の、ギリシャ人ののようにトルコ人以外の人々が重きを成すようになった。

コンスタンティノープルを征服した後も、メフメト2世の征服活動は継続された。バルカン半島方面では、ギリシャセルビアアルバニアボスニアの征服を達成した。また、黒海沿岸に点在するジェノヴァの植民都市の占領1460年にはペロポネソスのパレオゴロス系モレア専制公国を、1461年にはトレビゾンド帝国を征服東ローマ帝国の残党は全て消滅することになり、さらには、1475年クリミア・ハン国を宗主権下に置くことに成功、ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる。

そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブルと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。そして、15世紀後半にはジェノヴァの支配下にあった島々、レスボス1462年)、サモス1475年)、タソスレムノス、(それぞれ1479年)らを占領桜井(2005)、p.233.、このため、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「'''オスマンの内海'''」とするに至った。一方、アナトリア半島方面では、白羊朝の英主ウズン・ハサンが東部アナトリア、アゼルバイジャンを基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。1473年、東部アナトリアのでウズン・ハサンを破ったオスマン朝は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した

メフメト2世の後を継いだバヤズィト2世は、父とは異なり積極的な拡大政策を打ち出すことはなかった永田(2002)‎、pp.236-240。その背景には宮廷内の帝位継承問題があった。バヤズィト2世の弟であるジェムは、ロードス島フランスイタリアへ逃亡し、常に、バヤズィトの反対勢力に祭り上げられる状態が続いていたからである
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オスマン帝国の最盛期

バヤズィト2世の弱腰の姿勢を批判していたセリムが、セリム1世として、1512年に即位した。セリムの積極外交は、東部アナトリアとシリア・エジプトに向けられた。東部アナトリアでは白羊朝の後をサファヴィー朝が襲っていた。1514年チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝の野望を打ち砕くと、1517年にはエジプトマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。
スレイマン1世の時代、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ北アフリカにまで広がった。陸上においては、1521年ベオグラードの征服永田(2002)、pp.240-2441526年モハーチの戦いにおけるハンガリー王国に対しての戦勝、1529年第一次ウィーン包囲と続き、クロアチア、ダルマチア、スロベニアも略奪を受けることになった。また、海上では、1522年ロードス島でムスリムに対する海賊行為を行っていた聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握り、1538年プレヴェザの海戦アルジェリアに至る地中海の制海権の掌握に成功した。さらには、東ではサファヴィー朝と激突、1514年にサファヴィー朝をアナトリアから駆逐すると、さらにはイラクバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。

また、オスマン家とハプスブルク家の対立構造が、ヨーロッパ外交に持ち込まれることとなった。その結果が、ハプスブルク家と対立していたフランスフランソワ1世に対してのカピチュレーション付与となった。なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。

加えて、スレイマンはインドネシアアチェ王国のスルタンであるの要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行き、・へ攻勢をかけた。

スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。
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