パラグアイ
'''パラグアイ共和国'''(パラグアイきょうわこく)、通称'''パラグアイ'''は、南アメリカ中央南部に位置する共和制国家である。東と北東をブラジル、西と北西をボリビア、南と南西をアルゼンチンに囲まれている内陸国である。首都はアスンシオン。パラグアイの国旗はデザインが表と裏とで異なる。(パラグアイの国旗を参照。他にはモルドバの国旗とサウジアラビアの国旗で異なる。)
国名
正式名称はスペイン語で (レプーブリカ・デル・パラグアイ)である。通称は 。グアラニー語表記は Tetã Paraguái (テタ・パラグアイ)である。通称は Paraguái。公式の英語表記は (リパブリック・オブ・パラグアイ)。
日本語の表記は'''パラグアイ共和国'''。同国の在日大使館の正式呼称は'''パラグァイ'''。日本では通常'''パラグアイ'''、'''パラグワイ'''などと表記され、漢字では'''巴拉圭'''、または'''巴羅貝'''となる。
パラグアイ(Paraguay)とは元々グアラニー語で「大きな川から」を意味する言葉であったという説が有力である。大きな川とはパラナ川のことである。その他にも「鳥の冠を被った人々」を意味するという説がある。次のエントリ
先コロンブス期
元々この地にはグアラニー人をはじめとするトゥピ・グアラニー系のインディヘナ諸集団が住んでいた。タワンティンスーユ(インカ帝国)の権威はこの地までは及ばなかったため、多く人々は原始的な共同体を築きながら生活していた。しかし、16世紀初頭以降、この地にもセバスティアン・カボットをはじめとするヨーロッパ人がラ・プラタ川を遡って渡来するようになる。次のエントリスペイン植民地時代
1537年にブエン・アイレからの探検隊によりアスンシオンが建設されると、スペイン領となった。この建設はラ・プラタ川からアルト・ペルーへの陸路と存在すると思われた「銀の山」を探すためであり、かつポルトガルの領土拡張に対する防塞建設のための遠征の結果だった。チャルーア人のようなラ・プラタ地域の狩猟インディヘナとは違って、粗放とはいえ農耕を営んでいたグアラニー人は文化程度も高く、スペイン人との同盟により敵対していた他のインディヘナと対決することを決め、スペイン人もこれを受け入れたので両者の間に交流が生まれ、混血者(メスティーソ)も発生していった。
1617年にアスンシオンを中心とする総督領から、ブエノスアイレスを中心とするラ・プラタ総督領、サン・ミゲル・デ・トゥクマンを中心とするトゥクマン総督領が分離する。17世紀以降はイエズス会宣教師による先住民への布教活動が、農業活動なども含めて活発に展開された。現在も残るイエズス会布教所跡はこの時に建設されたものがほとんどである。イエズス会はブラジルのサンパウロからやってくる、バンデイランチと呼ばれた奴隷商人への抵抗のためにグアラニー人に武装させた。ポルトガル人奴隷商人によって多くのグアラニー人が奴隷となってブラジルに連行されたものの、この軍隊はしばしばポルトガル人を破ってスペイン植民地の辺境を防衛する役目を担った。ローマ教皇に直属し、以後スペイン王室や副王の役人も容易に口出しできなくなったイエズス会の伝道地は、原始共産主義的な様相を帯び、自主自立の独立国家のような存在として、その後も他の地域のインディヘナが味わったような辛酸には至らず100年近く平和に存在し続けた。
1750年代以降は、により、 バンダ・オリエンタル(現在のウルグアイに相当)からグアラニー人が撤退してきた。その後すぐ1768年のスペイン王室の決定によるイエズス会の追放によりイエズス会は南米から撤退することが決まり、当地のグアラニー人達はスペイン・ポルトガルの直轄支配下に置かれることとなった。
1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領がペルー副王領から分離されるが、その後もパラグアイは余り大きな発展もしないまま月日が流れていった。次のエントリ
独立とカウディージョの専制統治
1810年5月25日、ブエノスアイレスにてポルテーニョが五月革命を起こし、ラ・プラタ副王領のスペインからの自治を宣言した際に、パラグアイ州はバンダ・オリエンタル、アルト・ペルー、コルドバなどと共にブエノスアイレス主導の独立を認めず、1811年に共和国として、ラテンアメリカで最初に正式に独立を宣言した。こうした混乱の中で国土の狭かったパラグアイは比較的早く国がまとまり、1814年にホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアが執政官に就任し、1816年には終身執政官の職に就いた。農民の支持を基盤にしたフランシアの長期独裁体制下では、政治的、経済的鎖国と土地の公有地化を進めた一方で、スペイン系白人(クリオージョ)の反乱を恐れたフランシアはグアラニー人とクリオージョの集団結婚を政策的に推進した。フランシアの政治は逆らうものは容赦なく追放し、処刑する恐怖政治に近いものであり、グアラニー人との混血やその他もろもろの要求を断った反対派のクリオージョ層は亡命したが、この時期の南米においてチリを除いたラテンアメリカ諸国が内戦を続けていたのとは対照的に、政治的には安定を保ち、義務教育が行われ、当時の旅行者が「パラグアイでは盗人も飢えた者もいなかった」との言葉を残す程だった。対外政策も成功し、1838年にはアルゼンチンのミシオネス州を併合する。1840年にフランシアが死亡すると政治的混乱が発生したが、1844年にフランシア博士の甥のカルロス・アントニオ・ロペスが初代パラグアイ大統領に就任することで、国内情勢は再び安定した。カルロス・ロペスは前任者から続いた鎖国政策を解き、国家の保護の下の開放政策に転じて一躍パラグアイの近代化に取り掛かった。
前任者の公有地化政策によりカルロス・ロペスの時代には国土の98%が公有地となっていたが、この土地制度を利用してマテ茶やタバコなどを栽培し、保護貿易によって莫大な黒字を上げた。カルロス・ロペスはこの貿易黒字を元手に鋳鉄や火砲を生産する工場を建設し、ヨーロッパに留学生を送り、1861年にはアスンシオンに鉄道が開通した。イギリスからの債務を負うことはなく、逆にイギリス人の技術者を雇って国家に役立て、パラグアイはラテンアメリカで唯一対外債務を負っていない国として自立的な発展を続けた。しかし、その治世の後半からはアルゼンチン、ブラジルからの圧力と内政干渉が激しいものになり、大事には至らなかったものの、ウルグアイの大戦争中に、ラ・プラタ川の封鎖を巡ってリトラル三州の反ロサス運動を支援していたことによって、アルゼンチンの独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスの軍と戦争したこともあり、こうした外圧を脅威に思って南米で最も強大な軍隊を組織した。次のエントリ
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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小澤、パラグアイでの経験