フィリピン
'''フィリピン共和国'''(フィリピンきょうわこく)、通称'''フィリピン'''は、東南アジアに位置する共和制国家。16世紀のスペイン皇太子フェリペにちなんだ国名の国である。島国であり、フィリピン海を挟んで日本、ルソン海峡を挟んで台湾、スールー海を挟んでマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、南シナ海を挟んでベトナムと対する。フィリピンの東にはフィリピン海が、西には南シナ海が南にはセレベス海が広がる。首都はメトロ・マニラ。国名
正式名称は、''Republika ng Pilipinas'' (フィリピン語: レプブリカ ナン ピリピーナス)、''Republic of the Philippines'' (英語: リパブリク オヴ ザ フィリピーンズ)。略称は、''Pilipinas''(フィリピン語)、''Philippines''(英語)。日本語表記による正式名称の訳は、'''フィリピン共和国'''、通称は'''フィリピン'''である。かつては'''フイリッピン'''、'''ヒリピン'''という表記もなされていた。漢字では、'''比律賓'''と表記され、'''比'''と略される。
国名は、1542年に、スペイン皇太子'''フェリペ'''(のちのフェリペ2世)の名から、スペイン人の征服者によって''ラス・フィリピナス諸島''と名づけられたことに由来する。次のエントリ
先スペイン期とイスラームの流入
フィリピンの歴史は多様な民族とカトリシズムによって織りなされてきた。フィリピン諸島で最も古い民族は25,000~30,000年前に移住してきたネグリト族。次に新石器文化を持った原始マレー。この後が、棚田水田農耕を持った古マレー。そして紀元前500年~紀元13世紀の間に移住してきたマレー系民族である。
スペイン人来航直前の頃は中国(明)や東南アジアとの交易で栄えイスラム教が広まったが、7,000を超える諸島である現在のフィリピンに相当する地域では統一した国家は形成されていなかった。西方からやってくるヨーロッパ列強に東南アジアが次々と植民地化される中、スペイン艦隊は太平洋を横断しメキシコから到来する。次のエントリ
スペイン植民地時代
1521年、セブ島にポルトガル人の航海者マガリャンイス(マゼラン)がヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達した。マガリャンイスはこのとき、マクタン島の首長ラプ・ラプに攻撃され戦死した。やがてスペインなどの航海者が来航するようになり、1565年にはスペイン領ヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)を出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を領有したのを皮切りに、徐々に植民地の範囲を広げ、1571年にはマニラ市を含む諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。しかし南部への侵攻は18世紀と遅く西南ミンダナオ島、スールー諸島、南パラワン島では、スールー王国をはじめとするイスラム勢力の抵抗に遭い、最後まで征服できなかった。スペイン統治下で、メキシコやペルー、ボリビアから輸入した銀や、東南アジア各地や中国(清)の産物をラテンアメリカに運ぶ拠点としてガレオン貿易が盛んに行われた。フィリピンではマニラ・ガレオンと呼ばれるフィリピン製の大型帆船がたくさん建造され、メキシコのアカプルコとアジアを結んでいた。
ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となった植民地時代に、布教を目的の一つとしていたスペイン人はローマ・カトリックの布教を進めた。スペイン人は支配下のラテンアメリカと同様にフィリピンでも輸出農産物を生産するプランテーションの開発により領民を労役に使う大地主たちが地位を確立し、民衆の多くはその労働者となった。支配者であるスペインに対する反抗は幾度となく繰り返されたが、いずれも規模の小さな局地的なものであり容易に鎮圧されてしまった。
独立運動が本格的になるのは、19世紀末、フィリピン独立の父とされるホセ・リサールの活躍によるところが大きい。1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国はエミリオ・アギナルドらの独立運動を利用するため支援(しかし、実際は後に判明するように、アメリカ合衆国がスペインからフィリピンを奪って自国の植民地にすることが目的だった)した。6月12日、アギナルドを大統領として独立宣言がなされた(第一共和国)。次のエントリ
第一共和国とアメリカ合衆国植民地時代
米西戦争で独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がアメリカ合衆国に渡る。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。フィリピン共和国の建国を認めないアメリカ合衆国による植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人が無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。アギナルドは米軍に逮捕され、第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカ合衆国の主権の下に置かれた。その後フィリピン議会議員マニュエル・ケソンの尽力で、アメリカ合衆国議会は1916年ジョーンズ法でフィリピンに自治を認めた。1934年アメリカ合衆国議会はタイディングス・マクダフィー法で10年後の完全独立を認め、フィリピン議会もこれを承諾しフィリピン自治領に移行した。次のエントリ
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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