ブラジル
'''ブラジル連邦共和国'''(ブラジルれんぽうきょうわこく、)、通称'''ブラジル'''は、南アメリカに位置する連邦共和制国家である。南米大陸で最大の面積を誇り、ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ペルー、コロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナ(つまりチリとエクアドル以外の全ての南米諸国)と国境を接している。また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、セントピーター・セントポール群島もブラジル領に属する。国土面積は日本の約22.5倍で、アメリカ合衆国よりは約110万km2(コロンビア程度)小さいが、ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きい。首都はブラジリア。南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である。南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。
国名
正式名称は、ポルトガル語で (ヘプブリカ・フェデラチヴァ・ドゥ・ブラズィウ)。IPAでは、[xeˈpublika fedeɾaˈtʃiva du bɾaˈziw]。通称 (ブラズィウ)。公式の英語表記は 。通称 。ポルトガル語では “Bra'''s'''il” と綴られるが、英語では “Bra'''z'''il” と綴られる。ただし、首都のブラジリアについては英語でも Bra'''s'''ília と表記される。
日本語の表記は'''ブラジル連邦共和国'''。通称'''ブラジル'''。漢字表記では'''伯剌西爾'''となり、'''伯'''と略される。1822年に'''ブラジル帝国'''として独立し、1889年の共和革命以降は'''ブラジル合衆共和国'''を国名としていたが、、1967年に現在のブラジル連邦共和国に改称した。
国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジルに由来する。元々この土地は1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルが来航した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために「ヴェラ・クルス(真の十字架)島」と名づけられたが、すぐにマヌエル1世の時代に「サンタ・クルス(聖十字架)の地」と改名された。
その後あまりにもキリスト教的すぎる名前への反発や、ポルトガル人がこの地方でヨーロッパで染料に用いられていたブラジルスオウに似た木を発見すると、それもまた同様に染料に使われていたことから、木をポルトガル語で「赤い木」を意味する「ブラジル」と呼ぶようになり、ブラジルの木のポルトガルへの輸出が盛んになったこともあり、16世紀中にこの地はブラジルと呼ばれるようになった。
「ブラジル」という読みはポルトガル本国などで使われるイベリアポルトガル語での発音であり、ブラジル・ポルトガル語での発音に最も近いカタカナ表記は「ブラズィウ」である。次のエントリ
先コロンブス期
ブラジルの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々(狩人)だった。彼らは紀元前8000年頃、現在のブラジルの領域に到達した。現在のブラジルとなっている地に遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には原始的な農耕を営む、トゥピー・グアラニー系の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インディアン)と名づけられる人々が暮らしていた。16世紀前半の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている。しかし、ヨーロッパ人が渡来してくるまでは、ブラジルに住んでいた人々の生活については何も知られていない。ブラジルの先住民には、トゥピー語系のほか、ジェー語系やヌ=アルアーク語系、カリブ語系の集団があった。ポルトガル人が最初に接触したのは、トゥピー語系先住民であった。そこでポルトガル人は、トゥピー語先住民の言葉がブラジル人の言葉であると誤解し、先住民はそれぞれ部族の言葉をもっているにもかかわらず、ポルトガル宣教師達は先住民にその言葉を教えた。それは信仰も同様として仕向けられた。次のエントリポルトガル植民地時代
1492年にクリストーバル・コロンがヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達した後、「発見」されたアメリカ大陸の他の部分と同様にブラジルも植民地化の脅威に晒されることになった。1500年にポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年にはイタリア人のアメリコ・ヴェスプッチがリオデジャネイロ(1月の川)を命名。初期のブラジルにおいては新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジルの輸出が主な産業となり、このために当初''ヴェラ・クルス''島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。1549年にはフランスの侵攻に対処するために、初代ブラジル総督としてトメー・デ・ソウザがサルヴァドール・ダ・バイーアに着任した。
1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社軍の攻撃を受け、北東部の一部がネーデルラント連邦共和国(オランダ)に占領された。オランダが撤退したのは1661年のことだった。
一方、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にマデイラ諸島からサトウキビが導入され、エンジェニョ(砂糖プランテーション)で働く労働力としてまずインディオが奴隷化された後、インディオの数が足りなくなると西アフリカやアンゴラ、モザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場主のファゼンダで酷使された。
ブラジル内陸部の探検は、サンパウロのバンデイランテ(奴隷狩りの探検隊)により、17世紀に始まった。バンデイランテは各地に遠征して現在の都市の基となる村落を多数築いた一方、南部やパラグアイまで遠征してイエズス会によって保護されていたグアラニー人を奴隷として狩った。こうした中で、激しい奴隷労働に耐えかねた黒人奴隷の中には逃亡して奥地にキロンボと呼ばれる独立国家を築くものもあり、その中でも最大となったキロンボ・ドス・パルマーレスはパルマーレスのズンビーによって指導され、バンデイランテスによって1696年に征服されるまで独立国家として存続した。
一方、1680年にポルトガル植民地政府は、トルデジーリャス条約を無視してラ・プラタ川の河口左岸のブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントを建設したため、以降バンダ・オリエンタルの地は独立後まで続くブラジルの権力とブエノスアイレスの権力との衝突の場となった。また、南部ではラ・プラタ地方のスペイン人の影響を受けてガウーショ(スペイン語ではガウチョ)と呼ばれる牧童の集団が生まれた。
その後、18世紀にはミナス・ジェライスで金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、ブラジルの中心が北東部から南西部に移動し、1763年にはリオデジャネイロが植民地の首都となった。ゴールドラッシュにより、18世紀の間に実に30万人のポルトガル人がブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入された。一方でミナスの中心地となったオウロ・プレットでは独自のバロック文化が栄えた。
バンダ・オリエンタルを巡るスペインとの衝突の後、18世紀末には啓蒙思想がヨーロッパから伝わり、フランス革命やアメリカ合衆国の独立の影響もあり、1789年にはポルトガルからの独立を画策した「ミナスの陰謀」が発覚し、首謀者のチラデンテスが処刑された。
その後、ハイチ革命の影響もあってクレオール白人やムラート、クレオール黒人(クリオーロ)による独立運動が進むが、植民地時代にブラジルに大学が設立されなかったなど知的環境の不備により、ブラジルの独立運動は一部の知識人の「陰謀」に留まり、大衆的な基盤を持つ「革命」にはならなかった。このことは、ブラジルとイスパノアメリカ諸国の独立のあり方の差異に大きな影響を与えた。次のエントリ
ブラジルの独立
ナポレオン戦争により、1807年にジュノー元帥に率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻した。このためポルトガル宮廷はリスボンからリオデジャネイロに遷都し、以降リオの開発が進んだ。1815年にリオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められた。ポルトガル政府はバンダ・オリエンタルのホセ・ヘルバシオ・アルティーガス率いる連邦同盟との戦いを進めてバンダ・オリエンタルを支配下に置き、征服した地域にシスプラチナ州を設立した。
1820年ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、リオデジャネイロのジョアン6世に帰国を要請した。
1821年にポルトガル宮廷はリスボンに帰還したが、摂政として残留したブラガンサ家の王太子ペードロをジョゼー・ボニファシオを代表とするブラジル人勢力が支持したこともあり、1822年9月7日に「イピランガの叫び」をあげて、ペードロが皇帝のペードロ1世(在位1823-1831)に即位する形でブラジル帝国がポルトガルから独立を宣言した。次のエントリ
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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お隣が中国人 同級生はブラジル人《ルールの変 マナーの乱??》(2011.01.04日本経済新聞)