プロイセン王国
'''プロイセン王国'''(プロイセンおうこく、)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。概要
プロイセン王国は、18世紀から20世紀初頭にかけて栄えた王国である。1701年1月18日、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいて戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。これより1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位するまでプロイセン王国は続いた。次のエントリ国名
バルト海沿岸の地域をドイツ語でプロイセン(Preußen)と呼んだことから、これが国名になった。プロイセンの地名は、バルト海沿岸の先住民族で自らをプルーサと名乗っていたプルーセン人に由来する。プロイセンは英語ではPrussia、フランス語ではPrusse、プロシア語ではPruqsasとなる。日本語での表記は、ドイツ語に由来する「プロイセン」のほか、英語に由来する「プロシア」や「プロシャ」がある。漢字では'''普魯西'''と表記され、「'''普'''」と略される。次のエントリ
地理
プロイセン王国はユーラシア大陸西部にあり、北をバルト海に接する丘陵地帯に誕生した。プロイセンの領土は、現在のドイツ北部、ポーランド北部、カリーニングラード(当時はケーニヒスベルク)、ユトランド半島からなるが、領土のあちこちに穴があり、埋め合わせることは困難だった。ヴァイクセル川下流域を境とする北東部は東プロイセンと呼ばれ、東方植民によるドイツ人入植地としては事実上の北限であった。次のエントリ住民
プロイセン王国の人口は、建国当時から消滅まで年々増加傾向にあった。そのプロイセンを形成する住民は殆どがゲルマン人であり、元々プロイセン地域に住んでいたプルーセン人は少なかった。これは、13世紀頃にドイツ騎士団による東方植民によってプルーセン人がドイツ化され、人口が減少したからである。それでも、プルーセン人は少なからず住んでいた。主要民族はドイツ人だが、東部のポーゼンおよびオーバー(上)シュレージエン地方にはポーランド人が農村部を中心に多数居住していた。また、東プロイセン南部の湖沼地帯(マズール地方)のマズール人・西プロイセン北部のカシューブ人等、スラヴ系の少数民族や、北部からのデンマーク人、先進諸国から迫害を受けて、自由を求めてプロイセンに亡命してきたイギリス人やフランス人なども居住していた。これらの移民は、プロイセン産業の発達に大きく活躍した。
ベルリン・ブレスラウ・ケーニヒスベルクなどの大都市にはユダヤ人が多数居住し、王国の経済・文化の発展に大きな役割を果たした。次のエントリ
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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