マイケル・ジャクソン

マイケル・ジャクソン

'''マイケル・ジョセフ・ジャクソン'''(Michael Joseph Jackson、1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカのポップ歌手

「'''ポップ・ロック・ソウルの真の王者'''('''the true king of pop rock and soul''')」、または「'''ポップ界の王'''('''King of Pop''')と称される。ギネス・ワールド・レコーズでは「'''人類史上最も成功したエンターテイナー'''」として認定されている。CDやビデオなどの世界総売上げは7億5,000万枚以上に昇る。VH1が選ぶ最も偉大な100のアーティストで、ビートルズに次ぐ2位。ローリング・ストーンが選ぶ最も偉大なシンガー100人では25位。

2009年6月25日、自宅近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターに呼吸停止の状態で運ばれ、その後死亡が確認された。。身長は175cm。
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マイケル・ジャクソン
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1958-1970

10人兄弟姉妹の7番目(六男)として、インディアナ州ゲーリーアフリカ系アメリカ人街に生まれる(すぐ上の兄マーロンの双子の兄弟は、誕生後すぐに死亡した)。ゲーリーは、住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人達にとっては最初の黒人市長が1967年に出た、誇りの土地でもある。当時は、黒人の自己主張が高まりだしていた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法状態が蔓延していた。

父のジョセフ・ジャクソンは、USスチール社の製鉄所の貧しいクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンエホバの証人の信者で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問は「Thriller」発売後も行っていた。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンは「シアーズ」などの小売店でパートタイムとして働くことで、家計を何とか補おうとしていた。

父は「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、アーティストの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1957年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露することもしばしばあった。

ところがある時、愛蔵のギターを息子達が隠れて演奏していると、弦を1本切ってしまう。勝手に切れたと思ってほしいという願いもむなしく、ジョセフに問われ、「殺される」と恐れたが、意外にも冷静に「演奏して見せろ」と言われ、ティト達が必死になって演奏すると、ジョセフはなかなかうまいことに気がついた。「これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれない」と思った父は、息子達に歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキーティトジャーメインと従兄弟とされていた2人(実は他人)で、1962年にボーカルグループを結成した。

翌年、マイケルは兄マーロンと共に2人の「従兄弟」と入れ替わりにグループに入る。マイケルは幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌っていた。マイケルは当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンド「Ripples & Waves Plus Michael(のち「the Jackson Brothers」と改名)」の一員として頭角を現した。

初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演することで、地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。

1965年には、地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストで、テンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏し、優勝した。

1966年に、4人の兄達と「ジャクソン5」(ジャクソンファイブ)を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これにより、ジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時は、まだまだ駆け出しであったため、前座の出演であった。この過程で、ジェームス・ブラウンジャッキー・ウィルソンサム&デイヴなど、様々なスターのパフォーマンスを勉強した。

地元では、インディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。

当初、ジャクソン5をインディアナ州で発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際に発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。

1968年7月に、モータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの」(I want you back)でメジャーデビュー(マイケルは当初8歳の設定だったが、実際には11歳だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、いきなりヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながら、ビブラートが掛った声がファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手は、ビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし1位を獲得。続く「小さな経験」(The Love You Save)「I'll Be There」も1位となり、デビューから4曲連続で全米チャート1位に送り込むという快挙をなし遂げた。
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マイケル・ジャクソン
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1971-1980

マイケルは、1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビュー。11月には、人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。翌年には、「Ben」もヒットした。

1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。マーヴィン・ゲイスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。モータウンとの金銭的なトラブルも出はじめた。マイケル本人も背が伸び、酷いにきびに悩まされ、その上声変わりが追い打ちをかけて、性格が急変。ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と後に語っている。実際、「背が伸びて可愛くなくなった」などと冷やかされることもしばしばであった。

結局、自分達による音楽を求めたメンバーは1975年にモータウンを離脱し、エピック・レコードへ移籍した。しかしその際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めず、訴訟問題となった。そのため、グループは名前を「ザ・ジャクソンズ」と改め活動を行うことになった。しかし当時一番マイケルと仲が良く、グループのセックス・シンボル的存在でもあったジャーメインは、モータウン社長の娘と結婚していたためグループから脱退。新たにマイケルの弟ランディがザ・ジャクソンズに加入した。

このいざこざでグループの人気が下がるのではないかと心配され、事実移籍後のアルバムの売り上げはさほどよくなかった。だが、ザ・ジャクソンズが初めてセルフプロデュースを行った3枚目のアルバム「Destiny」がヒットし、その不安を一蹴する。この頃のザ・ジャクソンズのヒット曲としては、「Can you feel it」「Blame it on the boogie」「Shake Your Body (Down To The Ground)」(マイケルとランディの共作)などがある。ジャクソンズ時代もマイケルはグループと並行し、ソロ活動を行っていた。

1978年、ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「Wiz」(オズの魔法使いのアレンジ)にカカシ役で出演していた際、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わっている。「ウィズ」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しなかった。年末に発売された映画からの「ユー・キャント・ウイン」が、エピックでのデビュー曲であった。

クインシーをプロデューサーに迎え、「Off The Wall」を制作。7月先行シングルとして発表された 「Don't Stop 'Til You Get Enough」 は、初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけたナンバーである。なお、この頃はドラムとピアノを使って作曲を行っていた。当時は黒人ということで、さほどオンエアされなかったが、タキシードを着たマイケルが3人に分裂する映像は話題を呼ぶ。最終的には全米チャートを制覇した。8月に発売された「オフ・ザ・ウォール」は、少年ボーカリストからの脱皮を印象付けることになる。10月には、「Rock With You」を発表。この曲では、一人多重録音の技術が用いられている。ビルボードでは、4週連続1位を獲得している。さらに、「Off The Wall」「She's Out Of My Life」と同一アルバムから4作連続で全米チャートトップ10に入るという、当時ソロアーティストとしては誰もなしえなかった快挙を成し遂げた。しかし、後にマイケル自身が「スリラー」でこの記録を破ることになる。「オフ・ザ・ウォール」はロングヒットを飛ばし、次回作に期待を集めた。

ザ・ジャクソンズは、1980年9月「マイ・ラブリー・ワン」(Lovely One)(マイケルとランディとの共作)、11月「ハートブレイク・ホテル」(This Place Hotel)(マイケル直筆)とシングルを出したが、これらがこの時期のザ・ジャクソンズの主要曲であることからも分かるように、この頃はグループの中でも非常に重要な位置を占めていた。「This Place Hotel」はもともと「Heartbreak Hotel」という名前であったが、後に改名している。「ビリー・ジーン」「Dirty Diana」同様スキャンダラスな歌詞で知られている。
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マイケル・ジャクソン
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マイケル・ジャクソン
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1981-1990

1981年3月には、1975年発売の「フォーエヴァー・マイケル」から、「想い出の一日」(One Day In Your Life)がモータウンから発売されたが、「オフ・ザ・ウォール」の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。1981年12月には次回作のため、「オフ・ザ・ウォール」では「Girlfriend」を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組むことになり3曲のデュエット(「The Girl Is Mine」「Say Say Say」、そしてポールのアルバム「パイプス・オブ・ピース」に収録された「The Man」)を後に生むことになる。ポールとはプライベートで一緒になることが多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを観たとマイケルは語っている。

1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。ナレーションのほか、このアルバムのための楽曲“Someone In The Dark”を提供した。1982年8月には、クインシーと2人でロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかしがり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌おうとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム「スリラー」は全米チャートで37週にわたり1位を記録。日本でもオリコン史上初の洋楽アルバムによるミリオンセラーを達成。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、「スリラー」はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。

1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞・作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている。2005年の無罪判決の時もジャーメインが「Larry King Live」に出演した時、司会のラリー・キングもこの曲を引き合いに出し、「マイケルは被害者か?」と質問している。ジャーメインはこれに対し、この曲に関しては人によって非常に多様な解釈が出ていることを念頭に置き「歌詞の内容が曲解され、事件が起こる」と語っている。この作品は黒人であるにも関わらず、MTVでプロモーションビデオが放映され続け、「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品のひとつとして知られている(もうひとつは、プリンスの「Little Red Corvette」である)。

2月には「黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊す」というコンセプトのもとで、エディ・ヴァン・ヘイレンを起用した力強いロックナンバー「Beat It」を発売。このビデオではリードシンガーの背後で群集がダンスするという、プロモーションビデオの画期的な変革を行ったことで知られる。現在では当然のように撮影されているが、その原点と言われるのがこの作品である。このショートフィルムでは自身の希望で「ロサンゼルスのストリートの本物のチンピラ」を起用した。

1983年5月には、モータウン25周年コンサート(Motown 25: Yesterday, Today, Forever)においてこの曲の間奏でムーンウォークを初めて披露した()。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie Jean」を歌うことを条件に出したとされている。この初披露のムーンウォークでは爪先立ちが上手く出来ず本人の満足のゆくものではなかったという。

そして、12月には後の多くの調査でミュージックビデオの最高傑作と目される「Thriller」がMTVで初公開された。約14分の大作であるこのビデオではマイケルが狼男に変身したり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的な構成が話題となった。監督はジョン・ランディス1999年のMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。

1984年2月には本人出演のペプシのCMが、MTVによって初公開された。しかしペプシのCMでライブバージョンを撮影中、アクシデントが起こった。階段最上段からステージに降りてくる途中で散らす予定の火花が、階段最上段にいる状況のまま散った。髪に火がついた状態のまま登場したマイケルは、頭頂部に大きなやけどを負った。この時は皮膚移植手術によって完治した。ペプシ側はマイケルに対して推定3億円あまりの賠償金を支払ったが、マイケルはこの賠償金の全額を治療した病院に寄付した。また、この一件についてペプシ、製作者側を非難することはなく、両者の関係が悪化することもなかった。

「スリラー」の記録的ヒットの後、家族を巻き込んだ金銭的トラブル、音楽的方向性の分裂と妥協の繰り返しなど、ザ・ジャクソンズの活動は困難に直面。マイケルは結局ソロ・ライブ「ヴィクトリー・ツアー」の後にグループを脱退する。ザ・ジャクソンズはその後ジャーメインがリードボーカルを務めるもののうまくいかず事実上解散状態になった。

1985年には、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加し、その際「We Are The World」をライオネル・リッチーと共作した。その姿勢は評価されたが、「バンド・エイド」の模倣であるとの揶揄、アメリカ中心主義ではないかとの批判もされ、賛否両論の結果となった。楽曲自体はメロディ、歌詞共に普遍的で素晴らしいものであると言われ、多くの賞を受賞した(受賞記録を参照のこと)。ロナルド・レーガン大統領から授与された際、マイケルは右手に白の手袋をしたまま握手をしたため、一部から不評を買った。この頃から彼は持病として皮膚病を患っていたため、手袋を外せなくなっていた。

同年8月、ビートルズの版権251曲を管理する音楽出版社ATVを約4,750万ドルで購入。ビートルズのメンバーではポール・マッカートニーと2曲のデュエット・シングル(「The Girl Is Mine」、「Say Say Say」)を発表するなど親交が深かったが、マイケルの所持する大量のビートルズの版権をマッカートニーが売買してくれないかと交渉を持ちかけたところマイケルが断ったため、その後はさほど仲が良くない。なお、マイケルに音楽の版権を投資対象として買うよう勧めたのはマッカートニーであった。マッカートニー自身は不仲説を否定しており、マイケルの没後には「マイケルが版権を残さなかったことで私がショックを受けているというのはまったくの事実無根」「マイケルと私は実際、何年にも渡って疎遠になってはいたが、仲違いしていたわけではない」と声明を出している。マイケルはビートルズに対して特別な思い入れがあり、ジョン・レノンの次男ショーン・レノン1988年の「ムーンウォーカー」で共演したり、「Come Together」をカバーしたりしている。なお、ビートルズの版権は20年後の2005年時点でも、購入した版権の半数を所有していた。

1986年5月、ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や公演も受け持つことになったため、世界ツアーに向けて大きな後押しを得ることになる。8月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のアルバムの制作に取り掛かった。

完成したアルバム「BAD」は1987年8月に発表され、「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げた。表題曲「BAD」のショートフィルムは、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話が基になった。パフォーマンス部は今までの縦と横の動きに加え様々な動きを加えた複雑なダンスを披露した。振付はグレッグ・バージロバータ・フラックウェズリー・スナイプスが出演し、マーティン・スコセッシが監督を務めた。1987年9月から世界ツアーを行い、1988年にかけてアメリカや西ドイツイギリスなどで公演を行った。日本に於いても「M.M.旋風」と称されるブームを巻き起こした。なお、もうひとつの「M」はマドンナである。

1988年1月には自伝「ムーンウォーク」が出版され、4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストで初登場1位を獲得した。この頃、社会的な問題に対しても目を向けだし、1月発売のシングル「Man In The Mirror」ではポリティカルな題材を歌い、後のマイケルの作風につながる作品となった。1988年4月にはソ連のCMに西側諸国の人物であるマイケルが出演したことで話題となった。また、この頃ビートルズの版権を大量購入するなど、ロックに意欲を示していた。その彼はハードロック調の楽曲「Dirty Diana」を書き、4月にシングルとして発売された。この曲はダイアナ・ロスを連想させるタイトルであったため当時話題を呼んだ。

1989年、BREアウォーズでポップ・ロック・ソウルの三部門を制した。エリザベス・テイラーはこれを「The True King of Pop, Rock And Soul」と称した。
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1991-2000

世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、更なる極みを目指し「Dangerous」を制作。このアルバムからクインシー・ジョーンズとのタッグを解消した。1991年10月に発売されたこのアルバムからの先行シングル「Black Or White」は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。全米チャートでも7週連続1位を獲得した。ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の映像技術であるモーフィングが採用され話題となった。

ところが、この曲のショートフィルムでは後半のソロ・ダンスシーンが暴力的過ぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。後にそのバージョンのショートフィルムはその部分の映像に黒豹が登場することからパンサー・バージョン(パンサーとは豹属の動物一般のことである)と呼ばれるようになった。セクシュアルなダンスや、人種差別団体の名前やハーケンクロイツが描かれた車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされたのだが、これに対する批判は多い。なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一斉放映が許可されており、マイケルのビデオ作品ではじっくり見ることが出来る。アメリカでは深夜に放映されたという話はあるが、日中に放映されたという話はない。ただ、現在見られるパンサーバージョンは、初期の映像とは若干違っており、窓に書かれた人種差別団体の名前などいくつか修正され、今ではそれらの文字は消されている。

アルバム「Dangerous」は1991年11月に発売され、ビルボードでは4週連続1位を獲得。発売後6週間で全世界での売り上げは1千万枚を突破した。このアルバムで共同プロデューサーとなったテディ・ライリーはクリフォードから、アルバム「Dangerous」は時代を先取りしていた、と後に評されている。発売日にはロサンゼルス国際空港でアルバム3万枚が銃で脅され強奪されるという事件も起こっている。

しかし、このアルバムの発売と前後してかつてマイケルを映像で世界的スターにしたMTVグランジバンドニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を大量に流す事態が発生。それで強力に煽られることとなった1991年9月発売のニルヴァーナのアルバム「ネヴァーマインド」に連続を止められ、アメリカではかつてのMTV主導型のマイケルの音楽は商業的過ぎるという批判を受け出すことになる。そのため、アメリカでは評判は前作ほど良くはなかった。しかし、全世界ではこのアルバムは前作を超える3100万枚以上を売り上げることになる。

1992年1月には「Remember The Time」を発売。翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィーイマン・アブドゥルマジドデヴィッド・ボウイの妻)、マジック・ジョンソンと共演した。このショートフィルムでは、イマン・アブドゥルマジドとのキスシーンが話題となった。このショート・フィルムの監督は、ジョン・シングルトンが担当した。テディ・ライリーは2006年5月14日のインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と言っている。マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり日程を短縮した。この際に訪れたコートジボワールでは「サン族の王冠」の称号を授与されている。

4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「In The Closet」(監督は写真家のハーブ・リッツ)が発表される。7月にはNBAマイケル・ジョーダンとMJ同士で共演する「JAM」が発表された。この作品ではヘヴィ・Dノーティー・バイ・ネーチャークリス・クロスなども共演している。これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。

1992年からペプシがスポンサーになり、ワールドツアーを行い世界中でコンサートを行った。収益金は1992年にマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「Gone Too Soon」「Heal The World」を披露した。2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する“事件”が起きた)。彼が皮膚病の尋常性白斑に罹患していることを公表したのも、この番組の中であった。

1993年スーパーボウル第27回大会のハーフタイムショーでライブを行う。大型のビジョンの中で踊るマイケル。その後、画面から上部に飛び出しヴィジョンの上でダンス。さらに中央のステージまで瞬間移動するというもの。さらには、1分13秒間ステージ上で静止するという前代未聞のパフォーマンスを見せ、ジャクソンのハーフタイムショーはスーパーボウルの前半戦よりも高い視聴率を記録した。このジャクソンのパフォーマンスは、スーパーボウル・ハーフタイムショーの新たなスタンダードを築いたと言われている。彼はスーパーボウル・ハーフタイムショーの伝統上、ノーギャラでこのライブを行った。その結果、スーパーボウル単体としての価値が上がり、現在のような世界のトップアーティストを毎年ハーフタイムショーに招くことが定着していった。半年後の1993年8月、彼はマイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。

1994年には、MJJプロダクションズを設立した。1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・マリー・プレスリーと電撃結婚。1994年10月のベスト・アルバム発売が予定されていたが、延期され1995年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)「HIStory」を発売した。タイトルは“history”と“his story”を掛けたものである。当初は新曲は4曲で1枚のベスト・アルバムの予定であったが、延期され新曲が大幅に追加された。収録曲「D.S.」(この楽曲の名称はマイケルを訴えようとした検察官トム・スネドンを暗示したものと言われている)などマイケルにしては世間に対する主義主張の強い、イデオロギー性の強いアルバムである。


アルバムの発売に先駆けて5月先行シングル「Scream」が発売され、妹のジャネットとのデュエットが話題となった。二人の仲が良いことは有名で、ジャネットは自身のライブ中に裁判で戦っているマイケルに祈りを捧げたことがある。また当時の彼女の人気はマイケルに追いつくほどであった。8月「You Are Not Alone」を発売。史上初のビルボードHot100における初登場1位を獲得した。ショートフィルムでは当時の妻リサ・マリーとセミヌードで競演。12月には地球環境の破壊について切実に歌い上げた「Earth Song」をヨーロッパでカット。イギリスでは6週連続1位を獲得、イギリス国内だけでも100万枚を突破し、イギリスにおけるマイケル最大のヒット曲となった。マイケルのお気に入りの曲の一つでもある。

1996年4月には「They Don't Care About Us」をシングルカット。ところが、歌詞の一部が反ユダヤではないかとして批判を浴び、マイケルは自身が反ユダヤではないと弁明することとなった。ミュージックビデオのうちプリズンバージョンはMTV等の番組で放送が自粛され、ビルボードでは最高30位。しかし、ドイツでは首位を獲得している。7月16日にはブルネイの国王ハサナル・ボルキアに招待され国王の誕生日ジュルドンパークオープン記念に無料コンサートを開催した(費用は国王持ちだった)。1996年9月から3度目の世界ツアーを行う。韓国では熱狂した少年がマイケルの乗るゴンドラに飛び乗るというハプニングもあった。11月14日にデビー・ロウと二度目の結婚。

1997年、突如「Blood on The Dance Floor」(新曲5曲+リミックス8曲)を発売。600万枚以上の売り上げを記録した。マイケルは表題曲をエルトン・ジョンに捧げたとされている。詳しい経緯は分かっていないが、エルトン・ジョンはエイズの少年ライアン・ホワイト(1971年-1990年)に関する話でかつて協力し合った仲である。エルトン・ジョンは後の裁判の際には最後まで沈黙を守り続けている。この直後、ソニーとの確執は表面化し、1997年10月に発売されるといわれていた「ヒストリー」からの第7弾シングル「スマイル」が販売停止となった。

1998年7月に来日し、世界空手道連盟加盟団体の士道館から名誉五段を授与される。またこの際に「マイケル・ジャクソン・ジャパン」の設立を発表し、日本をはじめとして、アジアやアメリカでテーマパーク「World Of Toys」の建設や、国内外での玩具店の直営及びフランチャイズ方式での経営を行う計画を発表するが、その後計画は解消となる。

1999年6月にはマイケルと有志の友人たちがふたつのチャリティコンサートを開いた。収益金は赤十字ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。この頃ニューアルバムの製作に取り掛かっていたマイケルであったが、プロデューサーのウォルター・アファナシエフは「Fall Again」(後にアルティメット・コレクションにデモ音源が収録された)という曲を手がけている最中「レコード会社側が圧力をかけていてね(まだ発売されないんだ)」というコメントも残している。この当時何曲かのシングルの発売の噂は出ていたが、1つも実現しなかった。
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出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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