マルティン・ルター
'''マルティン・ルター'''(Martin Luther、1483年11月10日-1546年2月18日)は、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)の神学者、牧師、説教家。ルーテル教会の創始者。もともと聖アウグスチノ修道会の修道司祭であったが、宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化にも大きな足跡を残した。たとえばルターの手によるドイツ語聖書が、近代ドイツ語の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら賛美歌をつくったことなどが挙げられる。カタリナ・フォン・ボラという元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者、牧師の結婚という伝統をつくったことでも知られる(なおプロテスタントでは万人祭司の強調から牧師は聖職者とは呼ばれない)。
タンネンベルクの英雄で、のちワイマール共和国の2代大統領となったパウル・フォン・ヒンデンブルクはこのルターの子孫にあたる。
【動画】コラール 安らぎ、喜びとともに 私は往きます ルター詞/バッハ曲(ミク他

BACH,BWV125/6_Choral"Mit Fried und Freud ich fahr dahin"[Vocaloid] Early Music,On period Instrument( MIDI) 作者様サイト/The author's youtube site: www.youtube.com --------------------------------------------------- マルティン・ルター作詞&原作のコラール(讃美歌)を元に、バッハが4声コーラス化&オ...
生い立ち
ルターは1483年に鉱山業に従事していた父ハンス・ルダーと母マルガレータの次男としてドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれた。洗礼を受けた日がトゥールのマルティヌスの祝日であったため、彼にちなんでマルティンと名づけられた。もともと農夫から身を起こした父は上昇志向が強く、子供たちにもさらに上を目指すよう常に要求していた。教育において時に厳格を極めた父の姿は、後のルターが冷酷で厳格な神というイメージを持つ上で強い影響を及ぼすことになる。父の願いに沿う形でルターは勉学に取り組んだ。初めはマンスフェルトで、次いでマクデブルクに学び、法律家になるべく1501年にエアフルト大学に入った。哲学を学び、成績優秀で父の期待するエリート・コースに乗るかに見えた。1505年には、ロースクールに入学するが法学になじめず、すぐにドロップアウトした。ルターの人生に最初の転機が訪れたのはその1505年のことであった。家を出て大学へ向かったルターはエアフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で激しい雷雨にあった。落雷の恐怖に、死すら予感したルターは「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから!」と叫んだという。ルターの両親は修道院に入ることには大反対で、結婚して父の後を継いでくれることを望んでいたが、ルターは両親の願いを聞き入れるどころか父親の同意すら得ずにして大学を離れ、エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入った。次のエントリ修道院生活におけるルターと「神の義」
ルターは修道生活にもすぐ慣れ、祈りと研究の日々をすごしていた。この修道士時代にルターは聖書を深く読むようになり、ウィリアム・オッカムの思想に触れた。1506年には司祭の叙階を受けたが、初ミサを立てる中で、ルターは弱く小さな人間である自分がミサを通じて巨大な神の前に直接立っていることに恐れすら覚えた。当時からルターはどれだけ熱心に修道生活を送り、祈りを捧げても心の平安が得られないと感じていた。長上であり、聴罪司祭であったヨハン・フォン・シュタウピッツの励ましもルターの恐れを取り除くことはできなかった。エルフルトで教えていたルターだったが、シュタウピッツの勧めもあって、できたばかりであったヴィッテンベルク大学に移って哲学と神学の講座を受け持つことになった。彼はここでアリストテレスの手法を適用したスコラ学的なアプローチの限界を感じ、神を理性で捉えることは困難であるという理解に達した。その後、再びエルフルト大学で教えたり、修道会の使命を帯びてローマへ旅行するなどしたが、最終的にヴィッテンベルクに戻り、そこで神学の博士号を取得して、聖書注解の講座を受け持った。
その頃からルターの心を捉えて離さなかったのはパウロの『ローマの信徒への手紙』に出る「神の義」の思想であった。いくら禁欲的な生活をして罪を犯さないよう努力し、できうる限りの善業を行ったとしても、神の前で自分は義である、すなわち正しいと確実に言うことはできない。この現実を直視していたルターは苦しみ続けたが、あるとき突如光を受けたように新しい理解が与えられるという経験をする。そこでルターは人間は善行(協働)でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を義(正しいものである)とするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、ようやく心の平安を得ることができた。これが「塔の体験」と呼ばれるルターの第二の転機であった(「塔の体験」という名前はヴィッテンベルク大学学生寮の塔内の図書室において新しい福音の光が与えられたと、後年述べたことに基づいている)。ここでルターが得た神学的発想は、のちに「信仰義認」と呼ばれることになる。
ルターはこの新しい「光」によって福音と聖書を読み直すことで、ルターは人間の義化に関しての理解と自信を増していった。「正しいものは信仰によって生きる」、かつてあれほどルターを苦しめた「神の義」の解釈を見直したことによって大きな心の慰めを得るようになったのである。次のエントリ
【動画】桜井ルーテル教会50年の歴史 / Sakurai Lutheran Church History
奈良県桜井市外山にある桜井ルーテル教会は2007年、創立50周年を迎えることが出来ました。 記念としてこれまでの教会の歴史を綴る画像を集めスライドショーでお送りします。 Sakurai Lutheran Church 50th Anniversary! ↓2010年度下半期の集会予定↓ 10/31 宗教改革記念主日.講壇交換:江利口功牧師(橿原). 11/ 7 召天者合...
論争・贖宥状問題
大学で教える傍ら、司祭として信徒の告解を聞いていたルターは、信徒たちもまた罪と義化の苦悩を抱えていることをよく知っていた。そんなルターにとって当時、盛んにドイツ国内で販売が行われていた贖宥状の問題は見過ごすことができないように感じられた(贖宥状がいわゆる「免罪符」ではないことは贖宥状の項を参照のこと)。ルターは知らなかったが、ヨーロッパ全域の中で特にドイツ国内で大々的に贖宥状の販売が行われたのには理由があった。それは当時のマインツ大司教であったアルブレヒトの野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟であったが、初めマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位を持っていた。さらにアルブレヒトは兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた。しかし、司教位は本来一人の人間が一つしか持つことしかできないものである。
アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。こうして1517年、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が一枚でも多く売れれば、それだけ自分の手元に収益が入り、ローマの心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。
アルブレヒトの思惑通り、贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説教師の周りに群がった。義化の問題に悩みぬいたルターにとって、贖宥状によって罪の償いが軽減されるという文句は「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思えた。しかし、そのときルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」ということであった。煉獄の霊魂が、本来罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって償いが軽減されるという考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた(テッツェルのものとしてまれに引用される「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この煉獄の霊魂の贖宥のことを言っているのである)。
この煉獄の霊魂の贖宥の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、1517年10月31日(一説には11月1日)、ヴィッテンベルク城教会の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(ヴィッテンベルク城教会は大学教会を兼ね、その扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。ルターはこの一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすかまだ知らなかった。これこそが『95ヶ条の論題』である。ルターがこれを純粋に神学的な問題として考えていたことは、論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことからも明らかである。次のエントリ
論争・カトリック教会の権威
ルターが呼びかけた意見交換会は結局行われなかったが、『95ヶ条の論題』はすぐにドイツ語に訳され、国内で広く出回り始めた。既存のカトリック教会の体制への不満がくすぶっていたドイツ国内の空気にルターの論題が火をつけることになった。1518年にはルターは論題を神学的考察の形でまとめなおした『免償についての説教』を発表した。これに対する反論を記したカトリック司祭ウィンピーナは「信仰の問題に関して疑問を投げかけることは、教皇の不謬権への疑問と同じ意味を持つ」という指摘を行った。ここに至って、神学問題の提起を行ったルターがにわかにローマ教皇への挑戦者という意味合いを持たされることになった。ルターの友人であったインゴルシュタット大学の教授ヨハン・エックはルター説はかつて異端と断罪されたヤン・フスの説と似ていると指摘し、ルターを激怒させた。以後、二人は激しい論戦を繰り返すことになる。マインツ大司教アルブレヒトは、自らの収入の道が一神父によって絶たれてはたまらないとローマに対してルターの問題を報告したが、ローマ教皇庁は大きな問題とは考えず、聖アウグスチノ修道会に対し、ハイデルベルクでの総会でルターを諭して穏便に解決するよう命じた。1518年4月のハイデルベルクでの総会でルターが逆に自説を熱く語った。総会後には教皇レオ10世に対し、自らの意見を書面にして送付した。教皇庁では「プリエリアス」と呼ばれたドミニコ会の神学者シルヴェストロ・マッツオィーニがこれを審査したが、教皇権に関する部分についてのみとりあげて解説を加え、教皇の権威を揺るがす危険性があると指摘した。この時点では教皇もドイツ国内で解決できる問題であると考えていたが、ここで一つの政治的配慮が作用した。ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)の庇護を受けることになったが、当時の教皇はハプスブルク家への対抗上、フリードリヒをないがしろにはできなかったのである。
このような空気の中で行われた1518年10月アウクスブルクでの審問は、教皇使節トマス・カイェタヌス枢機卿が免償の問題に対するルターの疑義の撤回を求めたが、ルターは聖書に明白な根拠がない限りどんなことでも認められないと主張した。逮捕を恐れたルターはアウクスブルクから逃亡したが、教皇もルターの保護者フリードリヒに配慮し、ルターに対してそれ以上の強い態度に出ることはなかった。ルターは自らの身の潔白を主張し、公会議の開催を求めていた。公会議の決定は教皇を超える権威を持つという公会議主義の思想が色濃く残っていた時代であった(ルターの求めた公会議はやがてトリエント公会議において実現することになる)。
教皇庁では事態を穏便に解決するため、特使カール・フォン・ミルビッツを派遣してルターと会談させているが、結局事態は解決できなかった。教皇庁が秘密裏に交渉を続ける間にも事態は神学問題を超えて論議を呼んでいたため、神学者ヨハン・エックはルターの盟友ルドルフ・カールシュタットに論戦を挑んだ。1519年7月、ライプツィヒでこの討論会が行われることになり、エックとカールシュタットと議論を戦わせた。やがてルター本人も現れ、エックと論戦を行った。この議論の中でルターが公会議の権威をも否定してしまったことで、学問レベルでルター問題を解決しようという試みは失敗に終わった。事態は政治闘争の様相を帯びてきた。次のエントリ
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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