モナ・リザ
『'''モナ・リザ'''』(、、)は、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画。深緑の衣装を着た一人の女性が、僅かに微笑んだ半身の肖像が描かれている。現在はパリのルーヴル美術館に展示されている。歴史
レオナルドは1503年にこの絵を描き始め、3年から4年制作にあたった。完成後もレオナルドの手元に置かれ、フランスのフランソワ1世の招きによりレオナルドと共にアンボワーズ城近くのクルーの館へ移り、その後1510年頃にフランソワ1世によって4000エキュで買い上げられ、フォンテーヌブロー宮殿に留め置かれたとされる。さらにその後ルイ14世によってヴェルサイユ宮殿に移され、フランス革命後には現在の展示場所であるルーヴル美術館に落ち着いた。ただしその後もナポレオン・ボナパルトが滞在するテュイルリー宮殿を飾る目的でルーブルにあったほかの絵と同じく使用されたり、普仏戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦の際にフランス国内の安全な場所に移されたりしている。
1956年頃には酸による浸食で下部に著しい損壊が生じ、数ヶ月後には石を投げつけられたことから、『モナ・リザ』は現在のような防弾ガラス付き防犯ケースに収められた。また絵は木の板に描かれているためケース内部は湿度、気温ともに管理されるようになった。
1962年、アメリカ合衆国へと貸し出され、ニューヨークとワシントンD.C.で展示された。日本における展示は1974年に東京・上野の東京国立博物館で行われ、その後モスクワへ貸し出されている。次のエントリ
盗難
1910年には、絵画や彫刻などの美術品を傷つける犯罪が相次いでいた当時の風潮を受けて、保護ガラスでできたガラスケースに収める決定がなされる。しかしその一年後の1911年8月22日、ルーヴル美術館から『モナ・リザ』が盗み出され行方不明となった。関与が疑われた詩人ギヨーム・アポリネールが逮捕され、さらに友人パブロ・ピカソも逮捕されたが、1週間後に釈放された。『モナ・リザ』が行方不明となって2年後の1913年12月12日に、保護ガラスを取り付けた職人であったヴィンチェンツォ・ペルッジャ()という男によって、フィレンツェの画商に売られようとしたところを発見された。
ペルッジャは「ナポレオン時代にフランスに取られたイタリアの文化遺産を取り戻す目的で盗った」と証言していたが、実際には彼はアルゼンチンの詐欺師エドゥアルド・デ・"マルケス"・バルフィエルノ()に雇われており、バルフィエルノは贋作を作成してアメリカの富豪ら6名に売りつけていた(事件の詳細については『Valfierno: The Man Who Stole the Mona Lisa』(Martin Caparros著、ISBN 0-7432-9793-8)で紹介されている)。発見された『モナ・リザ』はイタリアで展示されたのち、フランスに返還されている。次のエントリ
視覚的考察
人物をバストアップのアングルで捉え、遠景を背景に配し、頭を頂点にしてピラミッド状に人物を置いた『モナ・リザ』の構図は、その後の肖像画に大きな影響を与えた。肖像画として初めて空想の空間の前に人物を描いたものの一つでもある。顔、首、胸、腕は柔らかな光が当たっているように描かれ、この光彩が隠れた球面と円形の構図を明らかにし、画面を生きたものとしている。全体を通してレオナルドが完成したスフマートで描かれており、背景には空気遠近法が効果的に用いられている。これによってレオナルドは、モデルと風景を統合的に描くことに成功している。モデルのわずかな微笑みを含めて、これらの全てが調和した一つの絵に仕上げられた裏には、レオナルドが持っていた人間と自然の宇宙的な繋がりの構想が反映されており、レオナルドの才能と先見を永遠に記録している。「モナリザ・スマイル」と呼ばれるその独特の笑いは古くから多くの研究者を虜にしてきた。純粋に魅力的な者を描いたと言う者も居れば、ひねた笑いか、悲しみをたたえた笑いであるとも言う者も居る。ジークムント・フロイトは、レオナルドが母親に抱いていた性的な魅力であるという解釈を残している。しかし、レオナルドの時代にはこのような不思議な笑みも肖像画によくみられる特徴の1つであった。この表情を感情認識ソフトに通したところ、83%の幸せ、9%の嫌悪、6%の恐怖、2%の怒りという結果になったという菅家洋也編集、伊藤裕発行 『最新保存版 週刊 世界の美術館 2008年7月24日/7月31日合併号』第1巻第1号通巻1号 講談社、2008年。また表情が左右で微妙に異なっている事もよく指摘される。左半分が悲しみ、右半分は喜びを表しているとする意見もあれば、レオナルドが同性愛者であるという説と関連付けて、左半分が男性、右半分が女性とする意見もある。
『モナ・リザ』の背景のみを取り出して、左右を入れかえて並べると、一つの風景が現れる。この背景には、曲がりくねった道と遠くに見える橋以外、人間の痕跡がない。広大な景観や、氷山が描かれていることから、アルプスの風景を描いた物ともいわれるが、どうやらレオナルドの理想の世界が描かれているようである。また、ラファエロ・サンティによる『モナ・リザ』の模写には、人物の左右に柱が描かれていることから、『モナ・リザ』の両端は切り取られているとする説もある。ぼやけた輪郭、優雅な造形、明暗の劇的な変化、全体の落ち着いた雰囲気を含めてレオナルドの「型」であり、これらの特徴はそのままその後の肖像画のプロトタイプともなった。また右側の景色に対して左側の景色は明らかに低いことから、背景は後に追加されたものとも考えられている。次のエントリ
モデル
ジョルジョ・ヴァザーリが、1人芸術家の作品と生涯を紹介した『画家・彫刻家・建築家列伝』(1550年)の中で、フォンテーヌブロー宮殿にある『モナ・リザ』にふれ、モデルを'''フランチェスコ・デル・ジョコンド'''("Giocondo")の妻であるとした。「モナmonna(伊)」は「婦人」、「リザ」は「エリザベッタ」の愛称を意味している。ちなみに、イタリア語での名称「''La Gioconda''」は「ジョコンド」を女性形にしたもので、ルーブル美術館でも「''La Joconde''」と称している。(なお、17世紀のフォンテーヌブロー宮殿の財産目録には「紗のベールをまとう宮廷婦人」とあった。)フランチェスコは実在した裕福な人物であり、当時フィレンツェの中で政治的にも権威を持っていた。しかし、その妻である'''リザ・デル・ジョコンド'''(リザ・ゲラルディーニ)については1479年10月16日に生まれ、1495年にフランチェスコと結婚したことは分かっているが、それ以外はほとんど分かっていない。また当時、肖像画の服装、背景、髪型にはモデルを暗示するモチーフが盛り込まれることが一般的であったにもかかわらず、『モナ・リザ』においては服装や髪型から明確な特徴が得られず、背景にも茫漠とした風景が描かれているのみで、特定の個人を示す暗示がほとんど得られない。
このため20世紀に入って、ヴァザーリの記述に対する疑問から、絵のモデルはジョコンダではないとする異説が複数唱えられてきた。これは以下の不審な点に起因する物である。
こうしたことから、20世紀に入ってモデルに関する様々な異説が唱えられるようになり、以下のような人物がモデルとして推定された。
その後もモデルに関する憶測もしくは捏造は止まることを知らず、「この肖像画はフランチェスコ・デル・ジョコンド、つまり男性の肖像画である」という極端な説まで現れた。
また、ベル研究所のリリアン・シュワルツ博士は、レオナルドの自画像といわれる絵と、『モナ・リザ』の顔の特徴をデジタル解析した結果に基づき、『モナ・リザ』はレオナルドの自画像であるという見解を出した。両者をコンピュータを用いて合成すると、顔の特徴がほぼ完璧に一致するというのである。しかし同じ画家が描いた絵であれば癖や好みなどから特徴が似通った絵となることも多く、レオナルド自身の「全ての肖像画は画家自身の自画像に通じる」という言葉を裏付けたとも見なすこともでき、必ずしもレオナルドが『モナ・リザ』のモデルであることを証明する物ではなかった。
そんな中、ドイツのハイデルベルク大学図書館は、2008年1月14日、『モナ・リザ』のモデルが、フィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻・リザであることを裏付ける文献が見つかったことを明らかにした。1477年に印刷された所蔵古書の欄外にフィレンツェの役人による「レオナルドは今、リザ・デル・ジョコンドの肖像を描いている」という書き込みがあった。この書き込みは1503年10月になされ、レオナルドが『モナ・リザ』を描いていた時期と重なり、ヴァザーリの記事が裏付けられたことになる。これにより、モデルにまつわる論争には一応終止符が打たれたという見方が有力であるが、それならばなぜすぐに依頼主に引き渡されなかったのかなど、依然として論拠の曖昧さが残る。次のエントリ
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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モナリザの暗号? と ゴッホの黄色の謎