慶應義塾大学
大学全体
慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に1858年(安政5年)に開校した蘭学塾を起源に持つ大学である。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川太郎左衛門の「韮山塾」等旧私塾の流れを汲む。1863年(文久3年)には蘭学塾から英学塾に改めて、旧幕臣・吉田賢輔等を教授に迎え、1868年(慶應4年/明治元年)前年に木村摂津守の世話により、芝新銭座(現在の港区浜松町)の有馬家控屋敷跡に移転し、年号をとって「'''慶應義塾'''」と塾名を定めた〔慶應義塾豆百科〕 No.7 塾名の由来、慶應義塾大学。。なお、「義塾」とは英語の「public school」(共立学校)の訳語とされ、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。まもなく、1866年(慶応2年)に親藩・紀州徳川家の藩命を受けて紀州藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は越後長岡藩・紀州藩・中津藩(慶應義塾の三藩)を中心とした士族が十中八九であった。1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設。同年10月には分校「大阪慶應義塾」・「京都慶應義塾」(京都集書院)を設立。また、福澤諭吉や松下元芳が塾頭をつとめ、塾生が一部移籍してきた「適塾」(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大坂とのゆかりが深い。1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設、1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所を開校・運営、同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正微兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に「藍謝堂」(高島学校)、「高山歯科医学院」、「耕余義塾」、「亮天社」、「三田英学校」がある。1890年(明治23年)に'''大学部'''(文学・理財・法律の三科)を開設。明治31年に政治科を開設。1917年(大正6年)大学部に医学科を開設して付属大学病院を開院、北里柴三郎が尽力。1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し、文学・経済学・法学・医学の4学部から成る総合大学となり、予科・大学院を付設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として慶應義塾評議員会が設けられた。1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとした事があり(獣医畜産専門学校)、1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。1944年(昭和19年)に「藤原工業大学 (旧制)」が寄附され工学部を開設。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部・環境情報学部を開設。2008年(平成20年)4月に「共立薬科大学」が合併したことにより、新たに薬学部と薬学研究科を設置して、大学は'''10学部'''、大学院は'''14研究科'''となった。卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、政変の後、漸次に経済人・実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した。次のエントリ塾訓・目的
慶應義塾には、「慶應義塾の目的」という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝・紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を元に、福澤自身が書き直したものである〔慶應義塾豆百科〕No.53 「慶應義塾の目的」、慶應義塾大学。内容は以下の通り。慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず
其目的は我日本国中に於ける気品の泉源智徳の模範たらんことを期し
之を実際にしては居家処世立国の本旨を明にして
之を口に言ふのみにあらず躬行実践
以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり
:以上は曾て人に語りし所の一節なり 福澤諭吉書
この一文は、福澤諭吉が門下生たちに「恰も遺言の如くに」托したもので、慶應義塾の真に目的とするところを最も簡明に言い表したものと解されている。
また、慶應義塾では、「'''独立自尊'''」を教育の基本に置く。これは、「心身の独立を全うし自から其身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」などと説明されている(修身要領第2条)。独立自尊という言葉は、福澤諭吉の人となりを端的に示すものとされ、また、福澤の教えの根本を言い表すものともされる。次のエントリ
教育および研究
●綱領「義塾」の「義」は'''社会公共のため協力して事を行う。'''という意味があり、これを念頭に置いている。大きな柱は「医療」と「研究」である。蘭学から適塾、慶應義塾医学所、北里柴三郎による伝染病研究所、北里研究所、満鉄衛生研究所までの歴史を汲む慶應義塾伝統の学問に立脚する医学は今日、ハーバード・メディカルスクールと1890年(明治23年)以来の長年の研究リンクを持ち、伝染病研究所を母体とする歴史を持つ理化学研究所と連携・協力を行っている。終戦後は旧中島飛行機株式会社青年学校へ基礎学科の研究室を約十年間移し、研究活動を行っていた(のちの武蔵野分校)。グローバルCOEプログラム取得や慶應医学賞設立も行っている。大学部時代の各学科の特徴としては、『四書五経』などの研鑽を積んだのち、数学を基礎学とした有形学から入って、無形の学へ進む編成が成されており、この伝統は当世の各学問分野においても根付いている。実学の精神である、「実証に基づく理論的、合理的な科学(サイエンス)」(窮理図解)や「自我作古」の精神等から伝統的な学術研究に加え、医療、産官学連携や知財活動などを通した研究を行っているが、科学研究費補助金は全体の10%に過ぎず、他を大学が全て負担している。なお、中国の中国科学評価研究センターが発表した世界大学ランキング「世界大学科研竞争力排行榜2007」によると、〝総合254位(日本12位・私大1位)〟、上海交通大学によると、2010年度〝総合201-300位(日本10位・私大1位)〟「THE-QS World University Rankings」アジア版によると、2009年度〝総合20位(日本10位・私大1位)〟、「(The Gourman Report)」によると、医学分野で〝総合17位(日本1位)〟、パリ国立高等鉱業学校によると、2007年度〝総合11位(日本2位)〟であった。トムソン・ロイターが発表した論文の引用動向からみる日本の研究機関ランキング(1999年〜2009年)では、被引用数で国内13位。-の論文引用度指数は材料科学分野で日本国内1位(04年〜08年)。分子生物学、遺伝学、精神医学、心理学、人文社会科学の各分野がトップ10入り(02年〜06年)する他、高被引用論文では神経科学、臨床医学、生物学・生化学の各分野がいずれもトップ7以内に位置している。「特許資産規模」では国内の大学・研究機関で4位に位置している。戦前には枢密顧問官へ定期的に器量人を輩出、昨今は日本人宇宙飛行士を2名輩出している。文系では、その他官公私立大などが行うマスプロ教育を忌避しており、ゼミナールを中心とした少人数教育を一貫して追求している。
●兵法
慶應義塾では新銭座時代から心身共に健康を保つ手段として学生の体育を奨励し、1892年(明治25年)の體育會創設によって専門家を雇って指導に当たらせた。初めは乗馬が主であり、1878年(明治11年)から剣術稽古が始まり、明治27年には神道無念流の根岸信五郎を師範に招いた。のち柔術、端艇、海軍・陸軍操練、弓術、徒歩の各部が加わった。明治29年徴兵令適用により学校に兵式訓練が課せられるに至るが、これより先に慶應義塾では早くから兵式操練が学生の間で行われており、1892年(明治25年)12月陸軍から銃剣その他兵器の払い下げに特別の便宜を与えられ、1893年(明治26年)夏頃までには陸軍・連隊旗と同様の「慶應義塾生徒隊」を結成し、1894年(明治27年)春東京府下で初めて発火演習を行った。昭和12年には「慶應義塾特設防護団」が組織され、昭和14年には上海に研究所、北京に公館を創立。中国、南洋への学生研究旅行団が派遣され、昭和16年には帝都学校報国隊結成などを見、卒業年限の短縮が実施された。日露戦争では帝国軍人援護会を支援し、第二次世界大戦に突入すると学生は学窓を離れて工場・農村に生産増強の勤労奉仕に挺身し、表彰を受けた。
●塾生皆泳
かつては全学部学科において水泳が必修科目であり、「塾生皆泳」なるスローガンのもと、水泳で50メートル泳法ができないと単位を取得できず、シーズンスポーツで水泳を選択することが義務づけられていた。複数の卒業生が、自著や対談の中で単位を取るのに水泳の特訓をしたと回想している。海軍軍人の長男(小泉信吉)を戦争で失った経験から小泉信三がこのような制度を作ったとされている。また、かつては体育実技において複数の競技が必修となっており、男子学生の場合、武道、球技、水泳(上記)、陸上競技を半期の内に大学の定めたローテーションに従って受講する必要があった。このような高校式の体育の授業を行っていた総合大学はきわめて珍しい。
●旧帝国海軍地下壕
戦中の様子を窺うことのできる重要な資料として、大日本帝国海軍(旧帝国海軍)との間には深い関わりがあり(当時の塾長は小泉信三)、1944年3月に軍令部第三部が日吉校舎に入ると、次いで寄宿舎に連合艦隊司令部が、後に海軍省・航空本部・艦政本部の地下壕が構築され、日吉は実質的な海軍の総本部となった。太平洋戦争(大東亜戦争)における、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、大和 (戦艦)の出撃命令などは全てこの日吉台地下壕から発せられたものであった。この経緯としては、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発すると、大学内でも配属将校はもちろん、特別高等警察(特高)が来るようになる。授業では自由主義や共産主義は厳しく弾圧され、国防論などの軍国主義的な講義が増え、教練(戦闘のための訓練)も次第に厳しくなっていった(慶應義塾は当時の小泉信三塾長などが学究的に共産主義に不協和なスタンスをとったため、特高警察などによる監視はそれほど厳しくはなく、塾生は比較的自由に学問に取り組むことができた。)。海軍省と慶應義塾が大学校舎を貸与する契約を結んだ背景には、大本営を置く横須賀軍港から近いことや、空襲避難に優れていたこと、各海域からの無線の受信状態や陸からの指揮統制システムに優れていたことなどが挙げられる。また、初代塾長岡本周吉(幕府海軍艦長)らが海軍兵学校の教官を務めたほか、明治期の卒業生は海軍関係者も多く、築地の海軍兵学寮や海軍主計学校に転じた者も多い。古来より海軍と慶應義塾は所縁の深い関係であったことが窺い知れる。次のエントリ
学風および特色
カリキュラム制定をはじめとする近代的教育システムのほとんどを日本で最初に導入した学校として知られている。慶應義塾大学では、日本の学校で最初に定額の授業料を納入させたのは慶應義塾でありこれは福澤諭吉の発案である。また、古来日本の風習には無かった演説を初めて取り入れ、明治8年には日本最初の演説会堂三田演説館が建てられた。次のエントリ出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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