日目
'''日目'''(にちもく、文応元年4月28日(1260年6月8日) - 元弘3年/正慶2年11月15日(1333年12月22日))は、法華宗の草創期において'''富士門流'''を率いた僧侶の一人。日興の高弟、本六の一人。日蓮正宗、日蓮本宗などでは'''第三祖'''に列せられている。略歴
11月24日、身延山に登り日蓮の弟子になり常随給仕を尽くす。
8月13日、太夫阿日尊、陸前三ノ迫六丁目において日目により改衣得度。
伊豆に遊化、又陸前に到り、三ノ迫新田に上新田坊〔本源寺〕を創す。
陸前三ノ迫に法華堂〔上行寺〕を創す。
大石寺塔中蓮蔵坊を創す。
(蓮蔵坊:現在は学頭寮、次期法主予定者として公表された者が登座まで居住する坊)
7月1日、十宗房を論破す。日道及び妙教寺3代日運、日目により得度す。
11月3日、日興、本尊を書写し日目に授与〔'''御手続本尊'''〕。日道、日目の命により陸前宮野に妙円寺を創す。
2月13日、日目等、日興の遺誡により大聖人御影並びに園城寺御下文守護につき違背なきよう誡む。
2月彼岸、本尊を書写し陸前一迫河田美濃房に授与。
3月、本尊を書写し陸前新田太夫四郎母に授与。3月、本尊を書写し新田十郎重道妻の姉に授与。
10月、法を日道に付す。
11月15日、京の皇室への申状提出('''天奏''')に向かう途中、美濃垂井の宿(岐阜県垂井町)で74歳で遷化した。
日郷は、遺骨を奉じて大石寺に帰り下之坊に納めた(現在は大石寺に納められている)。
日尊は、日目の意志を継いで上洛し、翌年、天奏を果たした。その後、京における布教は日尊によって継続された。日尊は、のちに京要法寺を創す。日尊の要請により、日目の分骨が京要法寺に納められている。
日目の遷化の地、美濃垂井の宿には現在、天奏寺(日蓮正宗の末寺であるが、現在正信会僧侶が占有・居住)が建てられている。
日目は大石寺蓮蔵坊安置の本尊をはじめ曼荼羅本尊を数体しか書写していないが、これは日目が学頭職だったので本尊は日興が書写していたためといわれている。
なお富士門流の一部では、『日興跡条々事』の文や日目の最期の言葉として伝えられるものを根拠として、「いつの日か、日目上人の再誕が出現し(目師再誕)、前世に果たせなかった国主諌暁を完遂する(目師再天奏)。その時、広宣流布が実現する」との伝承があり、今も信じられている。次のエントリ
本六
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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