米英戦争
'''米英戦争'''(べいえいせんそう、'''War of 1812''')は1812年6月-1814年12月、イギリス及びその植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族と、アメリカ合衆国との間でおこなわれた戦争である。「1812年戦争」「アメリカ=イギリス戦争」「第二次独立戦争」とも呼ばれる。カナダ、アメリカ東海岸、アメリカ南部、大西洋、エリー湖、オンタリオ湖を主戦場に戦われた。米英戦争の原因
この戦争がおこった背景にはいくつかの理由がある。第一にヨーロッパでのナポレオン戦争中、アメリカは中立を宣言するが、イギリスによる海上封鎖によって、アメリカは経済的大打撃を受けていた。またイギリスの米船に対する臨検活動も反英感情を強めた。
第二にアメリカ国内において、南部諸州人はインディアンの土地を狙っていたが、激しく抵抗するインディアンたちの背後でイギリスが扇動していると考えていた。そのため反英感情が高まっており、根本的解決のためにはイギリスと戦争するしかないと考えられた。この戦争においてインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐ為、イギリスと手を組んだ。
第三にナポレオン戦争に関わっていたイギリスには新大陸に戦力を向ける余裕が無く、アメリカはその隙を狙っていわば火事場泥棒的にカナダをイギリスから奪おうとした。
第四に、第三の理由からアメリカの指導者達は戦争はすぐに終わると楽観していた。次のエントリ
戦争の経過
こうしてアメリカから仕掛けられて始まったのが米英戦争である。1812年6月18日、アメリカ第4代大統領ジェームズ・マディスン政権のときに米国議会はイギリスに宣戦布告した。
外交的な論争が何年も続いた挙げ句の開戦ではあったが、どちらの側も戦争の準備はあまりできていなかった。
イギリスはナポレオン戦争に掛かりきりでいた。イギリス陸軍の主力はスペインでの半島戦争に取られており、イギリス海軍はヨーロッパの海上封鎖を強いられていた。1812年6月のカナダ駐在イギリス軍は公式の数字で6,034名となっており、これにカナダ民兵が支援していた。米英戦争の間、イギリスの陸軍及び植民地担当大臣は第3代バサースト伯爵ヘンリー・バサーストであった。開戦から2年間、イギリスは北アメリカの軍隊を補強するゆとりがなかったので、北アメリカ総司令官ジョージ・プレボスト中将に防衛的な戦略を採らせた。このことはプレボスト自身の考えでもあった。しかし、1814年になると、戦争経験のある25,000名以上の大規模な増援が可能になったにも拘わらず、プレボストのニューヨーク侵攻はプラッツバーグの戦いでの敗北で挫折した。また南部のルイジアナ侵攻もニューオーリンズの戦いで反撃された。
一方、アメリカ合衆国の方は楽観的に見過ぎていた。マディスン大統領は、民兵が容易にカナダを確保し、その後に停戦交渉を行えばよいと見ていた。1812年、アメリカ陸軍の正規兵は12,000名を切っていた。アメリカ合衆国議会は陸軍兵力を35,000名まで拡張することを認めたが、従軍は志願に頼り、給与が少なくて不人気だったうえに、最初の内は訓練を積み経験のある士官が少なかった。民兵は正規兵の応援を要請されたが、その所属する州の外での従軍には反対し、規律もあまり良いとは言えず、さらに出身州の外で敵と遭遇すると働きが悪かった。合衆国は戦費を賄うことが非常に難しい状態にあった。これは丁度国立銀行を放棄したばかりであったことと、北東部の民間銀行が戦争に反対していたことによっていた。
アメリカの準備の足りなさと、アメリカ合衆国陸軍長官ウィリアム・ユースティスの指導力の不足とで、ユースティスの更迭にまで発展し、初期のアメリカは悲惨な状況だった。ユースティスの後継者ジョン・アームストロングは1813年遅くにモントリオール占領を目指した連携戦略を試みたが、兵站の破綻、非協力的で喧嘩っ早い指揮官達および訓練の足りない兵士によって失敗させられた。1814年までにアメリカ合衆国陸軍の士気と指導力は大きく改善されたものの、首都ワシントンが焼き討ちにあい、今度はアームストロングが職を追われた。次の陸軍長官ジェームズ・モンローが新しい戦略を立てる前に、戦争は終わった。
アメリカの戦争遂行は、特に反戦論の声が大きかったニューイングランドでの不人気に災いされた。ニューイングランドが民兵や財政的な援助を与えられなかったことが深刻な打撃となった。ニューイングランドが合衆国から脱退するという脅威もあり、イギリスはこの分裂を即座に利用して、海上封鎖を南部の港に限定し、密貿易を奨励した。
米英戦争は主に3つの戦線で行われた。
● 五大湖地方およびカナダ戦線
● 大西洋戦線
● 南部諸州戦線次のエントリ
五大湖地方およびカナダ戦線
先ずアメリカは、英領カナダの奪取を狙い、カナダ領内に侵攻。エリー湖、オンタリオ湖をおさえ、アッパー・カナダの制圧には成功するも、セント・ローレンス川の水運をおさえることはできず、結果モントリオール、ケベックの攻略は失敗し、ロウアー・カナダの制圧はできなかった。こうしてアメリカのカナダ侵略の野望は潰えた。次のエントリ大西洋戦線
大西洋においても海戦がおこなわれていた。アメリカ海軍はイギリス海軍に較べ、戦闘艦の数も質も圧倒的に劣勢ながら、戦争前半は善戦した。しかしヨーロッパ大陸でのナポレオン戦争の帰趨が対仏大同盟側に有利になると、イギリスは海軍力をアメリカに向けたため、後半はその活動を封じ込められた。この戦争で英艦を破った米艦コンスティテューションは三笠、ヴィクトリーと並んで、世界三大艦の1つとして有名である。また私掠船も盛んに活動した。1814年、海軍に輸送されたイギリス陸軍は敵首都の直接攻略のためアメリカ東海岸に上陸、首都ワシントンD.C.は陥落、大統領府も焼かれてしまった。
ちなみに戦後、大統領府を改修する際に、このときの焼け焦げを隠すために真っ白なペンキを塗ったことから、大統領官邸はホワイトハウスと呼ばれるようになったという有名なエピソードがある。
またこの戦争で最も熾烈な戦いといわれるのが1814年9月13日の「マックヘンリー要塞の戦い」である。アメリカ兵は独立戦争時に作られたメリーランド州ボルチモアのマックヘンリー要塞(フォートマクヘンリー)に立てこもって戦った。当時のボルチモアはアメリカ私掠船の根拠地であった。それに対しチェサピーク湾に侵入したイギリス軍は間断ない艦砲射撃を加えた。彼らは25時間に及ぶ激戦に耐え、停戦後にも風になびく星条旗は伝説となった。これを見たフランシス・スコット・キーは星条旗を称える詩を詠み、後にメロディがつけられて現在のアメリカ国歌となった。次のエントリ
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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書評・渡辺惣樹『日米衝突の根源 1858-1908』(草思社) 宮崎正弘