鈴木尚典
'''鈴木 尚典'''(すずき たかのり、1972年4月10日 - )は、静岡県浜松市出身の元プロ野球選手(外野手)。からの登録名は「'''鈴木尚'''」(姓と名は区切らずひとつながり)。ニックネームは「'''ハマの安打製造機'''」。チームメイトからは「'''スーさん'''」と呼ばれた。
来歴・人物
2歳年下の弟・章仁は主に二塁手として横浜高、法政大学、三菱ふそう川崎硬式野球部でプレーした。鈴木は、一時期は2人で生活を共にしていた。浜松市立南陽中(浜松シニア)から横浜高校へ入学。入学直後から4番を打ち、2年生の夏()に甲子園に出場。高校通算39本塁打を記録するなど当時は長打力が注目されていた。にドラフト4位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。
『ドカベン』に憧れ捕手をしていたが、肩を故障し外野手に転向。守備に難があり、肩も弱かったが、打撃を買っていたので、横浜高校の渡辺元智は鈴木を使い続けた。プロ入り後も、特に全盛期は内角球をさばく技術も高く評価されていた。
プロ入り直後の、は二軍でも安打が一桁で本塁打なしという成績だったが、竹之内雅史の手腕によりから徐々に打撃が開花。1993年にはシーズンを通して二軍の4番を打ち、打率.280、9本塁打、47打点という結果を残した。
からは一軍に定着し、この年は主に代打で出場した。8月9日の対巨人戦にて槙原寛己からプロ入り初本塁打となる代打満塁本塁打を放つ。翌はスタメン出場が増え、クリーンナップを任されることもあった。7月16日の巨人戦で木田優夫から9回2アウト一・二塁の場面で逆転サヨナラ3ラン本塁打を放った。は初めて規定打席に到達し、打率.299を記録するなどさらに成績を向上させた。
には3番に定着し、初のタイトルとなる首位打者に輝く。4月16日のヤクルト戦で、カツノリの打球を落球したため、敵将の野村克也監督に1000勝を達成させるきっかけを作る。憧れの選手だった吉村禎章(巨人)にあやかり、からは背番号を'''7'''に変更した。同年は最多安打こそ1本差で同僚の石井琢朗に譲るが、前田智徳(広島)・坪井智哉(阪神)とのタイトル争いに競り勝ち、2年連続となる首位打者を獲得。マシンガン打線の中心選手として活躍し、チーム38年ぶりの優勝に貢献した。日本シリーズでは初戦で先制タイムリー、2戦目に4打数4安打2盗塁を記録するなど、5戦目まで全てでマルチヒットを放つ。最終的には打率.480(通算25打数12安打)、シリーズ新の9得点をマークする活躍で日本シリーズ制覇にも貢献、シリーズMVPを獲得した。
翌もリーグ3位の打率を残し、年間満塁本塁打3本を記録。この年は球団新記録となる110得点を残すが、緒方孝市(広島)の111得点に及ばず、リーグ最多得点はならなかった。しかしながら安打数、打点数などでは自己記録をマークしている。
は1997年以来の20本塁打をマークし、この年限りで廃止された最多勝利打点の最後の受賞者となった。しかし前半戦の不調が響き4年連続の3割はならなかった。この年のオフに共にマシンガン打線の中軸を担ってきたロバート・ローズが退団した。
に森祇晶が監督に就任。当時解説者だった落合博満がキャンプ時の臨時コーチに就任し、鈴木を指導した。ローズの退団でチームに4番バッターが不在だったため、森監督から新しい4番に指名された鈴木は、落合から「バッティング練習の時からバックスピンを掛けて打ち上げる練習しろ」という指導を受け、バックネットに向かってバックスピンポップフライの練習をし、飛距離を伸ばす訓練を行ったが、本来のフォームからずれていき、打率こそ3割を超えたものの本塁打は6本にとどまるなど、打撃に微妙な狂いを見せ始める(6月24日の巨人戦では、左打者としてはプロ野球史上初の1試合3併殺打を記録している)。翌は打率3割を切り、さらに成績を落とした。故障もあり出場試合数は100試合未満にとどまった。
は切り札としてチームOBの山下大輔が監督に就任すると、鈴木は打点こそ57止まりだったものの本来の打撃を取り戻し、153安打、打率.311、19本塁打をマークした。当時球団のオフィシャルリポーターだった長澤百代と結婚。一女が誕生。
しかし翌には攻撃型の2番という同監督の新構想に沿って開幕から2番打者を任され、再び打撃不振に陥った。レフトのポジションは佐伯貴弘に奪われ、横浜高校の後輩・多村仁の台頭でその存在感が薄れた。低迷が長期化した鈴木はこの年を境にして出場機会を大きく減らした。
守備力を重視する牛島和彦が監督に就任した、中日との開幕戦で9回裏無死に立浪和義の打球を後逸するというボーンヘッドを犯してしまう(記録は三塁打となり、チームはこの後アレックス・オチョアにセ・リーグ初の開幕戦サヨナラ満塁本塁打を浴びて敗戦)。その後も拙守や打撃不振が続いたことや、堅実な守備を買われた小池正晃がレフトに定着したためスタメン出場が激減した。シーズン終了時の打率は.215と自己最低と言える成績だった。なお、チームは借金1ながら4年ぶりの3位となった。
再起を期した、肩を痛めるアクシデントが重なり、開幕は二軍スタートとなった。しかし二軍では満塁本塁打を放つなど打率.386をマークし、5月11日に一軍に合流した。復帰後は主に左の代打の切り札や指名打者として起用された。6月15日のロッテ戦(千葉マリンスタジアム)には5番・DHで先発出場、第1打席に久保康友投手から先制点となる本塁打をライトスタンドに放った。7月11日の札幌ドームでの巨人戦でも、9回表に交代したばかりの前田幸長から勝負を決める本塁打を放った。その後も左の代打要員として活躍し、代打時の打率では.380を記録した。そしてこの年のオフに、プロ野球史上野手では第2位の減俸となる1億3,000万(59%)ダウンの9,000万円で契約を結んだ。牛島時代の2年間は守備力を重視するチーム方針もあり、代打、もしくは交流戦での指名打者に出場機会がほぼ限定されていた。
本人の希望により、から背番号を入団当初につけていた'''51'''番に戻すことになり、7番は巨人から移籍した仁志敏久内野手に譲ることになった。また、登録名を「'''鈴木尚'''」とすることに決定した。この年に横浜監督に復帰した大矢明彦は『横浜再建』三本柱のひとつに「鈴木再生」を挙げ、「泥にまみれて一からやり直してもらう」と奮起を促した。多村の退団もあり、2007年は若手との熾烈なレギュラー争いに加わることになった。開幕後の4月こそ3割を打ち黒田博樹(広島)から決勝本塁打を放つなど活躍を見せる。しかし5月以降は調子を落とし、6月はノーヒットで終わるなど不振を極めた。そして8月には一旦登録を抹消された。最終的な成績は打率.232、3本塁打とレギュラーを奪うことは出来なかった。シーズン終了後3,500万円(39%)ダウンの5,500万円で契約を結んだ。一時は2億円を超えていた年俸も2年で4分の1にまで激減した。
は吉村裕基の外野再転向や、小関竜也、ラリー・ビグビー、大西宏明らの加入もあり、さらに競争が激化することとなった。このような状況で鈴木はオープン戦で打率.241だったがなんとか開幕一軍を果たした。開幕後は左の代打要員として起用されたが、成績は打率.200、打点は0と低迷し、5月7日に登録を抹消された。二軍では4割を打つなど活躍し、8月17日に怪我で抹消されたビグビーに代わって左の代打要員として昇格した。昇格後は2本塁打を放ったが、打率は2割半ばで得点圏打率は1割台と低迷し、球団は10月6日に戦力外通告とともに二軍の育成コーチ就任を要請した。鈴木は決断を保留していたが、その後10月13日の神宮球場でのレギュラーシーズン最終戦(対ヤクルト戦)で6回表1アウト無走者の場面で代打起用され、押本健彦にファーストゴロに打ち取られ、結果的に現役最終打席となった。翌日の10月14日に引退を決意したことを公表。引退を決意した理由について本人は「横浜への愛着が強く、他球団のユニフォームを着てプレーする自分が想像できなかった」と自身のブログなどでコメントしている。その後10月17日に記者会見を行い、引退と二軍育成コーチ就任を正式に発表した。遡って、公式戦での現役最後となった本塁打を打った打席では、石井琢朗の応援歌が演奏されていた。
2009年3月22日に開催された横浜スタジアムでのオープン戦(対巨人戦)で引退試合が行われた。鈴木は3回裏に仁志の代打として現役時代の背番号51のユニフォームを着て登場、セス・グライシンガーからライトへ本塁打を放ち、有終の美を飾った。セレモニーでは高校時代も含めて21年間プレーした横浜への愛着やファンに対する感謝の気持ちを述べ、最後に「今日は一日、選手に戻れて幸せでした。18年間、本当にありがとうございました」と締めくくった。は湘南シーレックス育成コーチ、からは同球団打撃コーチを務めるが、10月31日に同年限りでコーチ職を退任。今後はNPO法人横浜DeNAベイスターズ・スポーツコミュニティで活動中。次のエントリ
年度別打撃成績
{| |-|style="text-align:center;"|||rowspan="17" style="text-align:center;"|大洋横浜
|1||3||3||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||1||0||.000||.000||.000||.000
|-
|style="text-align:center;"||12||24||22||3||6||2||0||0||8||1||0||0||0||1||1||0||0||2||0||.273||.292||.364||.655
|-
|style="text-align:center;"||48||81||77||6||20||0||1||3||31||8||0||1||0||0||3||1||1||18||0||.260||.296||.403||.699
|-
|style="text-align:center;"||117||372||336||48||95||20||1||14||159||58||3||1||1||5||28||0||2||65||6||.283||.337||.473||.810
|-
|style="text-align:center;"||111||410||355||66||106||15||0||13||160||62||6||2||2||3||47||2||3||79||7||.299||.382||.451||.833
|-
|style="text-align:center;"||125||534||478||76||160||30||4||21||261||83||11||8||0||3||48||4||5||82||6||'''.335'''||.399||.546||.945
|-
|style="text-align:center;"||131||583||514||92||173||30||6||16||263||87||3||7||0||4||61||2||4||96||10||'''.337'''||.408||.512||.920
|-
|style="text-align:center;"||134||613||542||110||178||31||6||17||272||92||7||4||1||6||57||0||7||109||10||.328||.395||.502||.897
|-
|style="text-align:center;"||134||607||552||91||164||32||4||20||264||89||6||0||0||6||43||2||6||85||15||.297||.351||.478||.829
|-
|style="text-align:center;"||122||516||454||56||143||22||1||6||185||57||15||4||1||5||51||4||5||72||9||.315||.386||.407||.794
|-
|style="text-align:center;"||99||410||380||34||107||19||0||9||153||42||3||3||2||2||17||4||9||63||7||.282||.326||.403||.729
|-
|style="text-align:center;"||133||522||492||67||153||30||0||19||240||57||6||5||0||0||24||1||6||83||12||.311||.351||.488||.838
|-
|style="text-align:center;"||80||168||150||18||40||9||0||1||52||21||1||0||2||4||9||0||3||25||7||.267||.313||.347||.660
|-
|style="text-align:center;"||65||86||79||2||17||3||0||0||20||9||0||0||0||1||4||1||2||23||1||.215||.267||.253||.521
|-
|style="text-align:center;"||61||86||82||10||27||5||3||2||44||13||0||0||0||1||2||0||1||16||0||.329||.349||.537||.885
|-
|style="text-align:center;"||95||260||237||27||55||12||1||3||78||17||1||0||0||2||21||1||0||48||9||.232||.292||.329||.621
|-
|style="text-align:center;"||49||49||45||3||12||0||1||2||20||4||0||0||0||0||3||1||1||10||1||.267||.327||.444||.771
|-
!colspan="2"|通算:17年
|1517||5324||4798||709||1456||260||28||146||2210||700||62||35||9||43||419||22||55||877||101||.303||.363||.461||.824
タイトル
表彰
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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